Artist Profile
この度、ホテルという開かれた場を提供して下さったことにより、バーンロムサイの子どもたちにとって個性を活かす機会をいただき感謝しています。 想像力は"経験に意味を、物質に価値を与える"根本的な能力と捉え、生きる糧となるスキルを育み、発想を最大限に活かす。それは祖父・洋之助の仕事に対する姿勢にも 共通し、現在バーンロムサイの運営にも受け継がれています。 バーンロムサイの子どもたちと世界を結ぶ一つの言語としての想像/創造を大切に、 また、旅がもたらす開放感と見知らぬ場所や文化に対する探究心はいつの時代も心と頭の栄養になると信じ、 それぞれの作品が泊まる方の旅に彩りを添えてくれることを願っています。
NPOバーンロムサイジャパン 名取 美穂
アメリカを訪れた26歳の名取洋之助は、車でニューヨークからロサンゼルスまで横断しながら撮影した。 2カ月かけてなるべくジグザグに進み、宿泊は町外れのツーリスト・キャビン、食事はどこも同じ味のクラムチャウダーかホットドッグだったという。 同行者は、ドイツ人の妻・エルナと、助手を務めたウォルフガング青年(作家Vicki Baumの息子)。 " 「宿や食事がどうであろうと若い私たちにとつては旅行こそ最上の楽しみ」(名取洋之助「アメリカ撮影旅行の思い出」『アサヒカメラ』1950年9月号)と回顧している。 砂漠を飛びはねたのは助手であろうか、ビルから紙飛行機を飛ばす紳士にも、伸びやかで自由なアメリカの雰囲気が表れている。 ご宿泊者の旅が最上でありますようにと願いつつ、財団所蔵ネガよりこの写真を選んだ。 『LIFE』にちなんだ赤とともに。
一般財団法人日本カメラ財団 白山 眞理
東京市高輪生まれ。慶應義塾普通部卒業後ドイツに渡り、ミュンヘンの私立学校で商業美術を学ぶ。
1931年『Münchener Illustrierte Presse』に投稿した写真が採用され、間もなくウルシュタイン社契約写真家
となって『Berliner Illustrierte Zeitung』などで活躍。ヒットラーの外国人就業規則によって1933年に日本へ
拠点を移し、東京で木村伊兵衛らと制作集団「日本工房」を結成。対外宣伝グラフ誌『NIPPON』(1934年創刊)などを制作・刊行。
1936年にオリンピックベルリン大会を取材後、1937年にアメリカへ渡り、週刊グラフ誌『LIFE』契約写真家となる
日中戦争勃発後は、財団法人国際文化振興会や陸軍の写真配信に携わる。
戦後は、綜合クラブ誌『週刊サンニュース』(1947年創刊)、『岩波写真文庫』(1950年創刊)の編集長格として活躍。
『GROSESS JAPAN(DAI NIPPON)』(KARL SPECHT/1937年)、『麦積山石窟』(岩波書店/1957年)、『ロマネスク西洋美の始源』(慶友社/1962年)
『新しい写真術』(慶友社/1955年)、『写真の読みかた』(岩波新書/1963年)ほか。
【アートステイ那覇 ロビー階にて、作品集も閲覧できるようになっております。】
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